財団法人朝鮮奨学会

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各講演の要旨


創立100周年記念事業趣意書


  新千年紀の始まりにあたる本年、財団法人朝鮮奨学会は創立100周年を迎えます。

  本会の歴史は、旧韓国政府が日本に派遣した留学生に対して、1900年に東京の「韓国公使館」において督学事務を行なったのがその淵源であります。日本の植民地時代には「朝鮮総督府留学生監督部」等の変遷を経て、1943年10月に日本民法による「財団法人朝鮮奨学会」の認可を受けました。

  1945年8月、第二次大戦後わが国が独立する歴史的流れの中で当財団は寄附行為を改正して、在日同胞を主とした理事会を構成しました。しかし、国土の分断と民族の分裂状況は在日同胞社会にも幾多の難関をかもしだし、本会の事業もまた複雑な環境におかれました。紆余曲折を経て1957年に韓国籍、朝鮮籍同数の理事に加えて日本の学識経験者が協力して新たな理事会を再建し、財団運営と奨学育英事業正常化の基礎を築きました。

  所属と思想、信条にかかわりなく民族的に統一した奨学援護機関として新しく出発した本会は、事業を推進する自主財源の安定化と内外各方面の支持、声援とあいまって事業を拡大することができました。

  同胞学生にたいする1961年からの本格的な奨学金給付事業の再開以来、今日までに高校奨学生、大学奨学生数は延べ約5万名、奨学金給付を中心とした奨学事業費は総計約83億円に達します。今日、数多くの卒業生が本国と日本各地の広い分野、また海外で活躍しております。

  在日同胞社会において世代交代が進むとともに民族性が薄れつつある状況が憂慮されています。本会は、このような現実を重くみて若い世代が民族の心と文化を育み、同胞の将来を担う国際性豊かな人材に成長するよう援護事業の目標を定め、微力ながら最善を尽くしてきました。

  このたび本会は、100周年記念の主要事業として、わが国の南北と日本の歴史学者、考古学者を招請して「古代史シンポジウム」を今秋、東京において開催いたします。この事業が分断された祖国の和解と融合を深め、国際理解と学術文化交流を進める上でいささかの貢献が出来ればと念じております。

  私たちは、21世紀に向けて本会に付託された民族的責務を遂行し、さらなる発展をめざしてより一層努力していきたいと思います。

  同胞社会ならびに日本の各界の皆様のご理解と暖かいご支援を心よりお願い申し上げます。

2000年2月

財団法人 朝鮮奨学会

100周年記念事業内容報告

古代史シンポジウム

  当財団の創立100周年を記念して「古代史シンポジウム」― 今よみがえる、東アジアの新発見 ―(財団法人朝鮮奨学会・古代史シンポジウム実行委員会主催、実行委員長=平山郁夫ユネスコ親善大使)が2000年11月24日(金)東京・西新宿にある朝日生命ホールで開かれ、会場には600名を超える人々がつめかけた。今回のシンポジウムは、統一的な奨学育英機関としての当財団の特徴を最大に発揮し、わが国の南北の学者と日本の学者を招いて開催したもので同胞団体主催としては初めての画期的な行事となった。

  まず大韓民国学術代表団の李元淳団長(ソウル大学校名誉教授)と朝鮮民主主義人民共和国学術代表団の鄭哲萬団長(社会科学院考古学研究所所長)が、それぞれ挨拶した後、南北と日本の5名の学者が最新の研究成果を発表した。 

  ・名  称: (財)朝鮮奨学会 創立100周年記念『古代史シンポジウム』


  ・テー マ: 「今よみがえる、東アジアの新発見」


  ・日  時: 2000年11月24日(金) 午前9時30分〜午後5時


  ・場  所: 朝日生命ホール(東京・西新宿) 


  ・参加 者: 630名


  ・主  催: 財団法人 朝鮮奨学会
         『古代史シンポジウム』実行委員会(実行委員長=平山郁夫ユネスコ親善大使)


  ・後  援: NHK、朝日新聞社、日本歴史学協会、日本考古学協会、歴史学研究会、朝鮮学会、朝鮮史研究会

 

プログラム

9:30 〜10:00  主催者・来賓挨拶
10:00 〜10:40 「高句麗考古学の新しい成果」

  石光濬先生(朝鮮民主主義人民共和国 社会科学院考古学研究所・古代考古学研究室副教授)

10:45 〜11:25 「最近発見された百済・新羅遺蹟 二例」

  韓炳三先生(大韓民国 前国立中央博物館館長・東国大学教授)

11:30 〜12:10 「渤海の歴史と考古学における新しい成果」

  蔡泰亨先生(朝鮮民主主義人民共和国 社会科学院歴史研究所・渤海史研究室室長教授)

12:10 〜13:00  休 憩
13:00 〜13:40 「百済史、新羅史の新発見」

  李基東先生(大韓民国 東国大学教授)

13:45 〜14:25 「古代朝鮮と日本との交流」

  西谷正先生(日本 九州大学教授)

14:50 〜16:30  ディスカッション(研究発表者およびコメンテーター)
16:30 〜17:00  記念品贈呈・閉会の挨拶

 

コメンテーター

 

早乙女 雅博

東京大学 大学院 助教授

 

亀田 修一

岡山理科大学 総合情報学部 助教授

 

小嶋 芳孝

財団法人 石川県埋蔵文化財センター 調査部長

 

木村 誠

東京都立大学 人文学部 教授

 

全 浩 天

在日本朝鮮歴史考古学会 会長


実行委員会

委員長
平山 郁夫 ユネスコ親善大使、前東京芸術大学学長
委 員
上田 正昭 前大阪女子大学学長、京都大学名誉教授
大塚 初重 山梨県立考古博物館館長、明治大学名誉教授
門脇 禎二 前京都橘女子大学学長、京都府立大学名誉教授
齋藤 忠 大正大学名誉教授
佐伯 有清 元北海道大学教授
鈴木 靖民 國學院大学教授
武田 幸男 東京大学名誉教授
全 浩 天 在日朝鮮歴史考古学協会会長
鄭 漢 徳 釜山大学教授
甘粕 健 日本考古学協会会長:新潟大学名誉教授 後援学会から
小谷 汪之 歴史学研究会委員長:東京都立大学教授 後援学会から
橋本 武人 朝鮮学会会長:天理大学学長 後援学会から
濱中 昇 前朝鮮史研究会会長:神田外語大学教授 後援学会から
外園 豊基 日本歴史学協会会長:早稲田大学教授 後援学会から
早乙女 雅博 東京大学助教授 企画委員兼任
李 成 市 早稲田大学教授 企画委員兼任
趙 景 達 千葉大学教授 企画委員兼任
文 純 實 東海大学講師 企画委員兼任

発表要旨

 「高句麗考古学の新しい成果」

   石光濬 (朝鮮民主主義人民共和国 社会科学院考古学研究所古代考古学研究室研究士)

  高句麗建国は紀元前277年

  私たちは高句麗の遺跡と遺物に対する発掘と研究に力をそそぎ、知られているように東明王陵を発掘し、それが高句麗の始祖王陵であることを考証した。そして、なによりも鴨緑江一帯の初期高句麗墳墓群にたいする調査発掘と研究を通して高句麗の建国年代を確定したことが、重要な成果の一つであるということができる。

  鴨緑江中流一帯において高句麗の早い時期の代表的墳墓である積石塚を大々的に調査発掘する過程で高句麗の建国年代をさらに確定できる遺物が出現した。鴨緑江流域一帯の積石塚からは褐色磨研土器、黒色磨土器、灰色土器などの土器類と環頭大刀、合口、槍、鉄斧などの鉄製武器、銅鐸、透彫り文装飾、小釘打ち薄銅版などの青銅器と装飾品が出土し、褐色磨研土器と黒色磨土器は紀元前3世紀の遺物として認められている。このような遺物資料とともに、高句麗に先行する句麗国の代表的な墳墓である五道嶺溝門墓が紀元前5縲怩S世紀の墳墓であるという資料にてらして、その墳墓形式が類似する高句麗の初期積石塚は、遅くとも紀元前3世紀以前から営まれていたと明言することができる。

   『三国史記』や『三国遺事』には高句麗の建国年代が紀元前37年に記録されているが、これは『三国史記』の筆者である金富軾を始めとする新羅正統派が高句麗の建国年代を意識的にけずり下げてしまったからである。高句麗の建国年代を紀元前3世紀初葉とみる根拠はまた、広開土王陵碑に広開土王が鄒牟王(東明王)の17世孫として記録されていることからもわかる。『三国史記』高句麗本紀には広開土王が東明王の12世孫となっているが、即ち広開土王陵碑の記録とは5世代の差が生じている。『三国史記』高句麗本紀に高句麗初期の五世代王たちが欠落している。高句麗の建国年代は紀元前37年ではなく、秦始皇が中国を統一した紀元前221年より、かなり先んじており、高句麗が建国した甲申年は外でもなく紀元前277年であることがわかるのである。




   「最近発見された百済・新羅遺蹟 二例」

   韓炳三 (大韓民国 東国大学校文科大学碩座教授)

 百済陵山里寺跡

  1993年、百済最後の都である扶餘での発掘により1300年余りの眠りから目覚めて、金銅大香?が発掘されたことで陵山里寺跡は一躍、有名となった。第三建物遺跡から金銅製香?をはじめとした金・金銅製の金属製品、金属材料、ガラス、水晶などの玉製品、木製品、土製品、瓦類、石製品など数多くの遺物が出土した。特に香?は鋳造時に湯の流動性を高めるために鉛、ヒ素などの添加物を多く混合したことがわかった。このことは香?の細部文様の繊細な表現とともに当時の百済の鋳造技術を反映する作品として高く評価される。香?はあわただしい状況のもと隠す為に水槽の中に入れられ、その上を色々な土器片や瓦片そして土などで覆い隠した所謂、退蔵遺物であるとみられる。そして、この寺跡は百済が滅亡した660年頃であるのが確実となった。さらに1995年に出土した木塔跡の心礎石からは銘文のある花崗岩製舎利龕が出土し、この建物跡の性格を究明するのに決定的な資料を提供した。現在、発掘調査が進行している扶餘陵山里廃寺遺跡のこれまでの結果、伽藍建物跡7ヶ所が確認され、それらの建物の東・西・南側は、それぞれ廻廊によって連結されていることが明らかになっている。陵山里寺跡の建物群は保存状態が比較的良好で三国時代の建築はもちろん、東北アジアの建築史に画期的な資料を追加できるものとなった。

  慶州龍江洞統一新羅苑池遺跡

  慶州市の統一新羅苑池遺跡に対する全面発掘は、1998年9月から1999年4月にかけて実施された。その結果、試掘調査時に発見された建物跡・道路遺構・石列などが別個の遺構ではなく一つの遺構である統一新羅時代の苑池として把握されると共に学会の注目を受けるようになった。苑池の構成要素である護岸石築・人工島2ヶ所・入水路・苑池内の各種造景石と建物跡1・建物跡2・橋脚施設・道路と関連した溝などが発見された。この遺跡の調査の後で、日本の奈良の飛鳥京跡でもこれと類似した構造をみせる苑池遺跡が調査され、韓日両国の学界も高い関心をみせていた。  



  「渤海の歴史と考古学における新しい成果」

   蔡泰亨 (朝鮮民主主義人民共和国 社会科学院歴史研究所渤海史研究室室長)

  高句麗遺民が中心となって建国

  私たちはかつて渤海が高句麗の人たちによって建てられた国なのか、靺鞨人によって建てられた国なのか見当がつかなかった。そこで私たちは渤海史と関連した歴史記録を全面的に再検討する一方、渤海の遺跡遺物に対する調査発掘事業を広くすすめた。歴史文献に対する全面的な再検討を行う半面、遺跡遺物に対する調査発掘を通して渤海国が外でもなく朝鮮民族の国であった事実を明らかにした。

  698年、大祚栄は渤海国の建国を宣布した。渤海国の創建で主導的な役割をになった勢力は高句麗遺民であり、建国のため唐との闘争を指揮したのは高句麗出身の将帥であった。

  『三国遺事』に引用された『新羅古記』には「高句麗の旧将帥 祚栄の姓は大氏」と記録されている。また渤海国の領域は旧高句麗の領域をほとんどそのまま継承していた。『新唐書』では、渤海の建国初期の状況を伝えながら「扶餘、沃沮、弁韓、朝鮮、海北諸国をすべて収める」としている。

  渤海第二代王・大武芸が728年、日本に送った国書で渤海国は「高(句)麗の旧地を回復し、扶餘の遺した風俗をもつ」(『続日本紀』巻10神亀5年、正月甲寅)としている。

  ところで渤海の住民構成であるが、5京、15府、62州が設置された本土では農業を基本生業とする高句麗系統の住民が絶対多数を占めており、狩猟・遊牧生活を営んでいた靺鞨人は渤海国の西北側と東北側の辺境地域で暮らし、その数も少なかった。渤海の統治機構はその構成と機能から見て異族を治めるためのものでなく政権を握った高句麗出身の貴族たちが同族である高句麗遺民を支配統治するためのものであった。そして地方統治機構にも州県制だけあって部族制はなかった。渤海史研究において私たちが新しく解明した代表的な実例としては、咸鏡北道清津市青岩区域富居里一帯の遺跡遺物の発掘過程で、渤海の首都であった東京龍原府の位置を富居里に確定したことである。

  私たちは「海東盛国」渤海の研究を深めることで渤海史を朝鮮民族史として正しく明らかにすることに寄与することができたと思っている。



  「百済史、新羅史の新発見」

   李基東 (大韓民国 東国大学校文科大学史学科教授)

  韓国学界の百済史、新羅史に関する研究内容があまりに膨大なため、近年、発見された金石文(主に碑文)と木簡資料を用いてなされた研究成果に焦点を合わせて検討する。

  百済の金石文と木簡

  1971年7月、公州宋山里の王陵で武寧王陵が発見され、王と王妃の誌石(陵誌)が出土した。その裏面には土地買入に関する文記(いわゆる買地券文)が刻まれており、百済史、ひいては韓日関係史に大きな刺激を与えた。武寧王の陵誌が発見されたことで、それまで日本の一部学者が主張していた「『三国史記』百済本紀の紀年は3年引き下げてこそ実年代と符号するという説」は覆され、百済の紀年調整論に終止符が打たれたことは学界にとって大きな収穫であった。

  ところで金石文の碑文は、国王以下、支配層の勲績を讃える頌徳文の性格を帯びている半面、木簡は当時の生き生きした社会の実像を伝えてくれる一級資料である。これまで百済の木簡の出土は15点と非常に少ないが、1995年に百済時代の宮苑遺跡である宮南池から出土した木簡一点は百済時代の社会経済史研究において実に貴重な資料となった。この木簡には表面と裏面に合わせて30余りの文字が記されている。その中には「西部後巷」・「中部」などとあり「百済の畿内は五部、部は各々五巷で区画されている」と記述した『隋書』百済伝の記事が不完全ではあるが確認された。

  新羅の金石文と木簡

  近代的意味での新羅史研究の本格的な出発は「真興王巡狩碑」からはじまり「北漢山碑」「黄草嶺碑」「昌寧碑」「磨雲嶺碑」など新羅史研究の一級資料として脚光を浴びた。また1934年に「南山新城碑」(591年)の第一碑が発見され、村主を中核とした地方社会の内部組織を究明する有力な端緒がつくられた。このように新羅史研究は碑文研究から始まったといって過言ではない。ところで碑文を主軸とした新羅の金石文が六世紀に集中している点は注目すべきである。六世紀の新羅の碑文は大部分が国家の法規ないしは施政方針を地方民に知らしめる目的で作られた、いわゆる律令制の性格を備えている。一方、木簡は実用的な目的から製作され、使用されたものである。今日まで新羅の木簡は百四十余点が確認されている。



  「古代朝鮮と日本との交流」

   西谷正 (日本 九州大学大学院人文科学研究院教授)

   古代より密接な関係が継続

  私たちが住む日本列島にとって、もっとも関係の深い外国は朝鮮半島である。

  交流史の始まりは、旧石器時代にさかのぼる。そして2300縲怩Q400年ほど前に日本ではまず北部九州において弥生時代に入る。朝鮮ではそれより少し前、いち早く無文土器時代もしくは青銅器時代に入っていた。弥生時代は、いうまでもなく稲作と金属器に象徴される農業文化をもっているが、その生成過程で朝鮮の先進文化を大きく受容した。また北部九州で青銅器が本格化するころの遺跡から朝鮮の無文土器が出土することがある。これまでの形質人類学の研究成果を考えると弥生時代における稲作と金属器に代表される新しい文化を開始させたのは朝鮮南部からの渡来人によるところが大きいことがうかがえる。

   弥生時代後期に入ると北部九州の国々と朝鮮との接触も増大し灰陶質の土器と鉄器という先進技術が朝鮮から北部九州に流入した。そして5世紀中葉から後半にかけては様々な新しい技術、風習が流入した。それらは日本の内部で自然発生的に出現するのではなく、すべて朝鮮に起源を求めることができる。5世紀中葉以後における日本の新しい文化は加耶・新羅・百済の諸要素を持っている。ところが新羅が加耶を滅ぼし勢力が拡大してくると高句麗は新羅に対抗するため倭との交渉を開始し、倭と高句麗という新たな局面が登場する。さらに新羅が百済、高句麗を滅ぼすと、高句麗や百済の先進文化が人の渡来と共に倭に流入した。

   7世紀後半から10世紀前半にかけては日本と新羅の間で、最初は外交が主眼であったが、やがて後には貿易を主体とする種種の交流が頻繁に展開するようになった。奈良・平安時代の日本は、唐にはるかに増して新羅、そして新羅に次いで渤海との交流が頻繁であった。古代の日本列島と朝鮮半島の関係は、時代によって交流の内容に差異はあるものの歴史的にきわめて密接であり、しかもそのことは日本と朝鮮それぞれの歴史的展開に大きな役割を果たしてきた。

 

  研究発表者を囲んで五人のコメンテーターが意見を交換した。その一部を紹介する

 司会: これよりご発表下さった五人の先生方を囲んでディスカッションを行いたいと思います。5人のコメンテーターの方にご意見、ご質問をお願いしております。まず、石光濬先生のご発表に対して早乙女雅博先生よろしくお願いいたします。

 早乙女: 高句麗の壁画古墳について質問します。今回発表の中で人物と四神が描かれた南浦市の牛山里二号墳と平壌市の魯山洞一号墳を新しい角度から考察して二世紀から三世紀という古い年代に位置付けていますが、その新しい角度とはどういうものか少し具体的にご説明願えないでしょうか。

 石: 高句麗の壁画古墳は三つの時期に区別されていました。人物・風俗図が最も古く、次に人物・風俗図と四神が描かれたもの、そして高句麗末期に  は四神が描かれました。しかし、このような見解は最近、新たに発掘された壁画古墳によって覆されています。従来、壁画古墳の最も古い時期と考えられていた人物・風俗図と一緒に四神図のある壁画が出てきているからです。ですから四神のある壁画が、これまでのように高句麗末期に出てきたものであるといえなくなっています。

 司会: 次に韓炳三先生のご発表について亀田修一先生よろしくお願いいたします。

 亀田: 陵山里寺跡の伽藍についてお尋ねしたいと思います。南から南門、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ伽藍配置は百済では一般的であり、また日本の四天王寺式伽藍配置のもとになったものですが、陵山里寺跡の伽藍は講堂が二つに分かれています。これに特別な意味があるのでしょうか。

 韓: 私も初めて見るものでした。講堂が二つに分かれているものは韓国のみならず日本でも見かけないと思います。資料を調べてみますと1961年に出された、ある考古学の雑誌の中に、中国の集安に同じものがあることがわかりました。特別な講堂ですが、その源流は高句麗にあるといえるのではないでしょうか。 

 司会: では蔡泰亨先生のご発表について小嶋芳孝先生よろしくお願いいたします。

 小嶋: 渤海の都であった東京龍原府を共和国の清津市富居里に想定されていますが、その構造や規模は、どの程度解明されているのでしょうか。また富居里で渤海の寺院跡は発見されているでしょうか。

 蔡:  富居里では現在、発掘の真最中であり、構造や規模については、断片的な報告よりは全体像がある程度つかめた段階でご報告する方がよろしいかと思います。文献記録から見ると、富居里には一万基以上の古墳があるということになっていますが、現在、確認できるものは千基ほどです。1997年、その場所から一つの古墳を発掘したところ王陵級の墳墓が出てきました。一方、寺院跡ですが渤海の都市遺跡からはたくさんの寺院跡が発見されるのですが富居里についてはまだ発見されていません。今後の調査に期待するところです。

 司会: 続きまして李基東先生のご発表について木村誠先生よろしくお願いいたします。

 木村: 六世紀の新羅の金石文によって、新羅の全体像は、どのような修正を迫られたのでしょうか。また比較史的な視点にたって韓国の木簡を見た場合、その共通点と相違点はどのようなものなのでしょうか。

 李: 六世紀の金石文の関心を集めているものは新羅の中央集権体制と国家の諸制度の解釈についてです。金石文は国家のプロパガンダ的な要素を含んでいるからです。また木簡に関してですが、新羅と百済の木簡を合わせても180点弱、数十万点にも達する中国や日本の木簡と比較対象することは難しいですが、韓国の木簡の形は中国・日本の木簡とも共通点は多いと言えます。問題は木簡の用途です。韓国の木簡についていえば文書としての役割は非常に少ない。また新羅では八世紀に至って木簡は衰退していったといえます。ほとんど紙を使用していたためです。

 司会: 最後に西谷正先生のご発表について全浩天先生よろしくお願いいたします。

 全: 「3世紀後半ないし4世紀の日本と朝鮮は、ちょうど古代国家の成立過程にある」と論じられましたが、高句麗は、古代日本より遥か以前に、また百済、新羅よりも前に成立したと思っているのですがいかがでしょうか。 

 西谷: 国家は突如として成るものでなく国家形成の過程というものがあります。高句麗の国家形成については日本、また百済・新羅よりは先んじて国家形成を成したというのが文献からも知り得る歴史像だと思います。考古学の立場から申し上げますと、高句麗の墳墓は無基壇式積石塚から基壇式積石塚へ、さらに巨大化してピラミッド型へと発展していく。その背後に国家成立過程を見ることが出来ると思います。高句麗は、基壇式積石塚の段階で国家形成の過程にあったと考えています。

 司会: 今回、たいへん貴重なお話ありがとうございました。最後に今後の交流のあり方についてご意見があればお伺いします。

 韓: このようなシンポジウムに出席する度に、新しく発掘される遺跡が、こんなにもたくさんあるのか? と驚きます。中国、日本、そしてわが国の資料を一ヶ所で閲覧できる資料センターのような構想を考えます。


記念レセプション

  ・日 時: 2000年11月24日(金) 午後6時30分〜8時30分
  ・場 所: ホテル「ヒルトン東京」
  ・参加者: 518名
   ○ 『古代史シンポジウム』に関係された先生方 ○後援団体及び文部省をはじめとする関係機関の方々
   ○ 在日の南北同胞団体の方々  ○奨学生卒業者及び有志と現奨学生
  ・内 容
 −1部−
   ○ 開 会  ○ 財団法人 朝鮮奨学会代表理事挨拶 ○ 来賓祝辞:在日南北同胞団体代表 ○ 来賓紹介 ○ 顕 彰
 −2部−
   ○ 乾 杯  ○ バイオリン演奏 ○ 懇 親  ○ 独唱・合唱  ○ 閉 会

  当財団の創立100周年を記念したレセプションが2000年11月24日(金)東京・西新宿のホテル「ヒルトン東京」(菊の間)で盛大に催された。

  会場は「古代史シンポジウム」を終えたばかりの南北の学者を始め、民族団体代表を含む在日同胞、日本の人士など500名を超える人々で埋め尽くされた。2000年6月15日、南北頂上会談によってもたらされた和解の流れを受けて、在日同胞社会においても地域単位で南北交流が行われてはいるが、南北各級の組織代表がこれほど一堂に会するのは同レセプションが初めてのことであろう。足の踏み場に困るほどの人波の中、司会の崔宣理事が開会を宣言すると、まず主催者を代表してウリマルで權碩鳳代表理事が財団の歴史を振り返りながら、「特に今日、財団が統一した奨学援護機関として役割を果たせるのも、ひとえに多くの諸先輩方の献身的な協力があったからこそ」とこれまで財団のため尽力してきた方々の労苦をねぎらった。また「奨学会は民族統一の流れと共に、その任された使命を今後も力強く果たして行く」と挨拶した。

  同じ内容を今度は、??桂煥代表理事が、ウリマルを解さない方々のため日本語で挨拶し、両代表理事の在日同胞和合前進への固い決意が表明された。続いて、来賓祝辞として民族団体代表が挨拶。在日本大韓民国民団中央本部の金宰淑団長は「奨学会が6月の南北頂上会談による南北和解の流れの中で実にタイムリーに創立100周年事業として、南北の先生方、そして日本の先生方も含めて『古代史シンポジウム』を開催したことは大変、喜ばしいことであり、内外にも大きな反響を呼び起こした」と評価しながら「常に祖国の和解を求めながら国際理解と学術交流を希求してきた朝鮮奨学会であればこそ可能であった」とその意義を強調した。一方、在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会の徐萬述第一副議長は「朝鮮奨学会がおさめた業績の中で特に素晴らしいことは、奨学金給付事業と共に、在日同胞の若い世代の中で民族性が日増しに喪失されつつある痛ましい現実を直視し、民族文化の啓蒙事業を幅広く展開し自主的な民族意識を持つように活動した」と激励、またこれは「思想と信仰の違いを超越し民族の将来を担う優秀な人材を育成することを基本理念としている朝鮮奨学会だけが達成することができた貴重な功績」と賞賛した。

  この後、顕彰として、文部省学生課長ご在任中、財団の運営安定と事業の正常化のために多くの貢献をされ、1989年、財団の評議員に就任、事業の発展に大きく寄与された西田亀久夫先生に、感謝状と記念品の伝達となったが、ご本人の体調思わしくなく、同じ評議員である鈴木二郎先生が代理として受け取られた。続いて、早稲田大学の奥島孝康総長と神奈川大学の山火正則学長の祝電が紹介された後、壇上の南北の両組織代表が互いに歩み寄ってガッチリと握手、会場からは大きな拍手が沸き起こり、感動的な場面となった。引き続き、宮崎繁樹理事(元明治大学総長)が杯を手に「奨学会の創立100周年を祝賀し、本日の『古代史シンポジウム』の諸先生方に感謝し、南北の平和統一とご発展を祈念して乾杯したいと思います」と乾杯のご発声をされ「乾杯」の唱和が会場に鳴り響くや、韓国・延世大学で学生を指導しながら世界各地で演奏活動をしている丁讃宇氏のバイオリンの音が…。参加者はバイオリンの素晴らしい演奏にしばし耳を傾けた。会場は、和やかな歓談のひとときとなり、各テーブルは同胞交流、旧友を温める場となり華やいだ。そしてこの間も、黄哲秀君(大学奨学生)のピアノ演奏や、奨学会協力者の朴根鐘氏による大琴(テグム)演奏などが行われ、会場を盛り上げた。

  この後、東京朝鮮歌舞団の姜春美氏が、わが国の代表的な民謡である「アリラン」と「ペンノレ」を熱唱、そして「ウリエ ソウォン トンイル クメド ソウォン トンイル…」と「ウリエ ソウォン」(われらの願い)を歌い始めると、当財団の奨学生たちも一緒になって合唱、そしてフィナーレは会場全員が、南北の区別なく統一への願いを込めて大合唱となり会場全体が大きな一体感に包まれた。

  20世紀最後の年に分断史上、初めての南北首脳会談が持たれ共同宣言が採択され、統一への大きな一歩を進めたこの年に、紆余曲折を経ながらも、統一した奨学育英機関として永く活動してきた当財団が創立100周年祝賀の日を迎えたことは、まさに時宜を得たことであった。

  この祝宴が当財団にとって創立100周年に相応しい内容となったばかりでなく、新世紀を迎える新たなスタートとなったのは言うまでもない。
 

『学術論文集』第23集 ー創立100周年記念号ー


  本会大学院奨学生を中心に同胞学生や留学生など若手研究者の研究論文を収録する『学術論文集』は1971年に創刊された。毎年一回ずつ刊行し1993年まで22集を数える。その後、財政上の事情から刊行中止を余儀なくされてきたが、本会創立100周年記念事業の一環として復刊(2000年11月発刊)、今後は隔年で刊行を継続していく運びとなった。

  人文・社会科学分野の論文8編、自然科学分野の論文11篇と、特別寄稿論文として本会奨学生出身の同胞研究者の先生方(裴富吉、姜尚中、金元重、梁成一、崔康勲、洪南基)の論文6編、合計25編の研究論文を収録している。

  付録として1990年〜1997年に日本で出版されたわが国に関係する単行本(日本語で書かれた)の目録を整理して収録した。